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代表作一覧
三池炭鉱の廃坑跡に足を踏み入れた瞬間に、足下から、働いていた人の声が本当に聞こえてきたような気がした。1997年の閉山から1年後のことだ。すごいものに触ったと感じ、映像として残したいと願った。だが地元では、「三池には“負の遺産”が多すぎるのですべてを忘れて次へ」という声も強かった。
明治期の囚人労働に始まり、与論島から集団移住させての差別労働、朝鮮人・中国人の強制連行、連合軍捕虜の強制労働。そして戦後は、日本を二分した三池争議と、458人の死者と839人の中毒患者を出した炭じん爆発事故。重い歴史だが、それはまさに日本が歩んできた道そのものに思えた。それを消し去ることは、日本の歴史を消すことであり、そこで必死に生き、働き、闘ってきた人々の姿はどうなってしまうのだろうか。その疑問から始まった。
三井三池炭鉱は、福岡県大牟田市を中心に広がった日本最大の炭鉱だ。同じ思いを持つ市の職員たちと『こえの博物館』プロジェクトを立ち上げ、様々な立場の、100人近い男女の証言を撮影。初めて語られ、やっと明らかになった歴史的事実もあった。また炭鉱のお母ちゃんたちの生きざまに、私自身が励まされた。その後、三池を舞台に、いくつもの作品を作ることになった。
(文・熊谷博子)
山本作兵衛さんのことは、ずっと気になっていた。福岡県の筑豊炭田に生きた炭坑夫。体験した労働や生活を子や孫に伝えたいと、60 歳を過ぎてから絵筆を握り、2000 枚とも言われる絵を残した。
深く暗く暑い地の底で、石炭を掘り出し運ぶ、男と女。この国と私たちの生活を支え続けた人々の姿だ。最も過酷な労働のはずなのに、描かれたおんな坑夫はドキドキするほど美しい。
2011 年5 月、その記録画と日記など697 点が、日本初のユネスコ「世界の記憶」に登録された。東日本大震災と原発事故からわずか2ヶ月半後のことだった。米騒動や戦争の時の日記からは、底辺労働者の悲しみと怒りが伝わってきた。作兵衛さんと、作兵衛さんが描いた人々とともに、日本を掘りたいと思った。
作兵衛さんの絵の中から出てきたような元おんな坑夫にも、出会うことができた。当時104歳であった。貧しさと重労働の中、強さと明るさで闘った人生に心揺さぶられた。
まず、作兵衛さんの絵とじっくり向き合う。家族や、画家の菊畑茂久馬、作家の森崎和江、上野英信の長男などゆかりの人々の証言から、今も変わらないこの国の差別や、エネルギー労働の構造が浮かびあがってくる。炭鉱を知ると日本が見えてくる。
(文・熊谷博子)
カレーズとは、アフガニスタンなど西アジアの砂漠地帯に掘られた、人工の地下水脈のことだ。それが枯れると、国も人も生きていけない。そんな願いをこめてこのタイトルをつけた。
旧ソ連軍の撤退が始まる1988年の数年前から撮影を始め、土本典昭、熊谷博子、アブドゥル・ラティフ(アフガンフィルム所長)による、共同監督の形をとっている。場所も首都のカーブル、旧ソ連国境のマザリシャリフ、パキスタン国境のジャララバード、イラン国境のヘラートと近郊の農村地帯と、広範だ。首都のバザールにロケット弾が撃ち込まれ、多数の死傷者が出るシーンなどもあるが、戦火の中で人々がどう生き抜いているか、アフガン人の生活の根っこと文化を描いたものだ。水面下で和解を模索する人々、祖国に戻ってきた難民たちの喜びの顔、タイル作りの職人と巨大モスクの修復。自衛しながら生きる農村の生活。特にその大家族の中で、女たちが労働をする姿や本音を語る場面は貴重だ。後に破壊された美術品の数々を含め、もう決して記録することのできない、アフガニスタンの生きた宝ものがつまっている。
(文・熊谷博子)
私が長崎の被爆者、谷口稜曄(すみてる)さんを初めて撮らせていただいてから、35年以上がたっていた。16歳で被爆、背中に大やけどを負った。米軍が撮影した“赤い背中の少年”は、原爆被害の象徴ともなった。入退院と手術を繰り返しながら、核兵器廃絶運動の先頭に立っていたが、仲間たちが次々亡くなり、次世代へどう引き継いでいくのかは大きなテーマだった。それは伝え手である私自身にとっても、共通の思いであった。
それまでにも、戦争や原爆に関する番組をかなり作ってきた。しかし時が経つにつれて、広島・長崎、東京大空襲を語ってくださった方たちの訃報を聞くことが多くなった。
そんな中、被爆二世でも、親から全くその体験を聞いていない人もいた。あまりに悲惨な体験であり、わが子にはつらくて話せないし話したくないのだ。
私自身もアフガニスタンでの戦場体験があり、時々、当時の皮膚感覚がよみがえり、つらくなることがある。知人も命を失っている。
2015年8月9日、谷口さんは被爆者代表として平和の誓いを述べた。「生きている限り、生き証人のひとりとして、その実相を世界中に語り続けます」
それから2年後に亡くなられた。とても代わりにはなれないが、私も、自分の意志で伝え続けたい、と思う。
(文・熊谷博子)
知人のドイツ人女性監督から、彼女の住むハンブルグ・オッテンゼンと東京・向島で、下町の住民による、ユニークな交流が始まった、と聞いた。路地に町工場が並ぶ様子が似ており、古いものを壊すのではなくそのままに活かす、新しい「まちづくり」が進んでいる、という。
私はその頃、新しく越したマンションでの子育てが始まり、孤独感から育児ノイローゼに陥っていた。保育園に子どもを預け始めてから立ち直り、向島に行ってみた。探していたものがあった。助け合う近所付き合いの中で、ヨチヨチ歩きの子どもが安全に遊んでいた。「まち」を考える住民たちが、自分たちのアイディアを出し、地元でじっくり話しあい、行政を巻き込んで実行に移していた。年に一度、爆発するような祭のエネルギーが、人々をむすびつけていた。中でも、母親たちの駆け込み寺のようになっている家族的な助産院は、魅力的であった。
大規模な開発が進み、ふれあうやさしさをなくしている東京とは、別の世界だった。
私がそれまで気にしていなかった「生活」に目を向けるようになり、「右手にカメラ 左手に子ども」を実行することができた、ターニングポイントとなる作品である。
(文・熊谷博子)
映画をつくる女性たち
東京国際女性映画祭は、岩波ホール総支配人だった高野悦子さんをプロデューサーに、1995年から25回続いた。「映画をつくる女性たち」は第15回を迎えた記念作品である。
今、女性監督は珍しくはない。だが長い間、製作現場に女性は、女優とスクリプターとヘアメイクしかいなかった。日本の女性監督第1号は坂根田鶴子。女性には選挙権もなかった戦前のことだ。戦後になり、女優出身の田中絹代が続いた。
そして第1回の映画祭、海外から多くの女性監督が来日する中、日本からは羽田澄子1人だけだった。この映画は、日本の女性監督の歴史を伝え、同映画祭に自らの作品を持って参加した、20人あまりの日本人女性監督・プロデューサーにインタビューしたものだ。渋谷昶子は、「よーいスタート」をかけると、“女の言うことが聞けるか”と、照明を消された、と言う。他に藤原智子、宮城まり子、松井久子、浜野佐知、河瀨直美、岡本みね子、関口典子、山崎博子、槙坪夛鶴子、高山由紀子、飯野久など。そして私自身。
思いを込めた映画をつくるとは、生きている時代と、社会と、さらに自分自身と格闘を続けることでもある。語られるそれぞれの人生がずしんと重い。そして勇気をもらえる。
(文・熊谷博子)