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宮城まり子さんが残した言葉

 ねむの木学園の園長で女優だった宮城まり子さんが、93歳で亡くなって半年たつ。

 この間、まさにコロナ禍で、私は彼女の残した言葉を心の中で繰り返していた。


 「やさしく やさしく やさしくね 

             やさしいことはつよいのよ」


 出会いは20年前。高野悦子さん(当時 岩波ホール総支配人)が立ち上げた東京国際女性映画祭で、私は15回目の記念映画を作ることになった。まだ日本では、女性が映画を作ることに高い壁があった。それまでに、自らの映画をもって参加した、日本人女性監督・プロデューサーたちが主人公である。

 まり子さんには、『ねむの木の詩』(1974)『ねむの木の詩がきこえる』(1977)などの監督作品がある。歌って踊って芝居ができ、文章が書けて絵も描けて、映画監督で、福祉施設の園長で・・・。今後日本に、こういう人は現れないと思う。

 ねむの木学園は静岡県掛川市にあるが、東京のご自宅を訪ねた。パートナーであった吉行淳之介さんと暮らした家である。がんから治ったばかりで、淡いピンクの服を着て、支えられて出てきたまり子さんは、童女のようであった。

 だが、話の中身は違った。福祉施設を立ち上げる決心をしたが、女優業との両立で、風呂の中くらいしか時間がなく、本をビニールでくるみ、必死に勉強したそうだ。そして吉行さんの話になると、とろけるような顔になった。

 ねむの木学園は、肢体不自由児の養護施設と学校だが、何らかの知的障害がある子どもたちも多い。つまり世間的には、非常に難しい状態の子どもたちを預かっていることになる。

 私が訪ねた時は、すでに開園から30年以上たっていたので、もう子どもとは言えない人々もいた。そしてまり子さんは、“子どもたち”全員からお母さんと呼ばれていた。子どもの数は多いのにお母さんは一人。誰もが自分だけのお母さんでいてほしい、と本音では思っている。これはなかなかに大変な状況に見えた。

 もう1本是非映画を撮りたい、ということで、かなり頻繁に電話をいただいた時期がある。受話器をとり「まり子です」という声を聞くと、ぎくっとした。今度はどんな無理難題だろうかと。それくらい、要求のレベルが高かったのである。

 静岡県立美術館で行われた、子どもたちの美術展だったと思う。いつものようにコンサートつきだ。行くと、私が紹介した記録映像のスタッフが、つくづく感心している。

 「リハーサルの時、すごかったんですよ。子どもたちに、あなたたちは志しが低い。ここには素晴らしい絵がいっぱい展示してあるのに、なぜ遊びまわっていて、見て勉強しないのかって」

 本番での、歌と踊りのハーモニーは感動的だった。

 私がまり子さんの実物を初めて見たのは、大劇場の「風と共に去りぬ」の舞台であった。

 もはや、誰がスカーレット・オハラで誰がレット・バトラーであったのか、全く覚えていない。覚えているのは、彼女の演技だけだ。間の抜けた若い黒人女中。日本人で、こんな役をやれる人がいるのかと。

 コロナ過の中で、医療従事者やその家族への差別発言。ネットでの誹謗中傷・・・。また地方では、感染者が出た家への投石で窓ガラスが割られたり、心無い落書き・・・。

 家族にも他人にも、優しくするのは難しい。同時に、強くあるのは難しい。

 でも本当は一緒なのだと。そして果たして自分にはできるのだろうか、と。

 改めて、まり子さんが残した言葉をしみじみとかみしめる。

 写真は、学園での宮城まり子さん。そして「ねむの木学園 子ども美術館」(ねむの木学園発行)から、まり子お母さんへの思いを感じさせる、何枚かの絵。



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